さぁさぁと白い糸のような雨を降らせる曇天を見上げ、雛森は「困ったなぁ」と呟いた。
 恐らくは通り雨。今日は休日で、この後は急ぐ用事もないし、雨天なのは別に構いやしないけれど。
「…困ったなぁ…」
 雨が打ちつける地面を見、小さく嘆息しながら、雛森はもう一度呟いた。


  雨路  


 茶葉が切れてしまったのだ。五番隊隊舎の。
 護廷からの支給品を注文すればいいものだけれど、せめて休息時くらいは美味しいものを出したいと、彼女はいつも、行き付けの茶屋で葉を購入する。
 茶葉を買って、美味しそうなお茶請けも買って、可愛い小間物を物色して、けれど財布の中身を確かめて諦めて。
 雨に降られたのはその帰り。
 まさか降るとは思わなかったから傘を持っておらず、慌てて駆け込んだのが休店日の飲食店の軒の下。
 ぽつぽつと足元で雨が撥ね、それを避けるために壁に背中をくっつけながら、もう何度目かも分からない「困ったなぁ」を繰り返す。
 気温も下がってきた。雨に降られて濡れた着物のせいで余計に体温を奪われる。
 はぁ、とこちらも何度目か分からない溜息を吐き、雛森は顔をあげた。
 と。

 曇天のために灰色に見える街並みの一角に、鮮やかな朱色を見付けた。
 それは蛇の目傘だった。遠目にも分かるほど大きな蛇の目傘は、どうやらこちらに向かってきているようだった。

「――あァ、やっぱり雛森ちゃんや」

 朱色が少しだけずれて、見知った顔が内側から覗いた。市丸だ。
 どうやら彼も非番らしく、死覇装でなく紺の着流しを身に付けている。
 驚き、慌てて雛森は頭を下げる。
「あ…こんにちは…っ」
「ん。買い物かえ?」
「は、はい…っ……あの、…市丸隊長も、ですか…?」
「いんや、散歩」
「え、こんな天気なのに?」
「こんな天気やから」
 雛森の真似だろうか。小首を傾げ、市丸は笑んだ。

「雛森ちゃんと会えたら相合傘できるやろか思て」

 一拍の間を置いて、雛森の顔が真っ赤になった。ほんにこのコは予想通りの反応をする、と、市丸は今度は喉をくつりと鳴らして笑った。
 そして朱い蛇の目傘を、す、と差し出す。
「入ってかん? 傘持っとらんのやろ?」
「あ、はい、…そうなんですけど」
 軒の下から動けないのは雨のせいだけではないのだ。
 雛森の視線を追い、市丸はその理由に気付く。雛森の履物の、鼻緒が切れていた。これでは雨が止んでも、裸足で泥の道を歩かねばならない。
「…雨に降られて走ったら、こうなっちゃって」
「そりゃ災難やったねぇ…背負しょって行ったろか?」
 そんなことをしたら心臓も血管も保たない。熱で身体が溶けて、必死で抑えている気持ちが奔流してしまう。濁流のようなそれはいろんなものや自分自身すらも巻き込んで、目も当てられない惨状を作り出す。
「いえっ、そんな、とんでもないです!」
「しゃあけどその履物とこの地面やったら帰れへんやろ」
「う……」
 困りきってしまって、桃は黙り込む。どんなに考えてもいい考えは見付からなくて、けれど市丸は答えを待ったまま何も言ってくれなくて。それがますます雛森を困らせる。
 ああ、そうだったと、熱を帯びたままの頭で桃は思う。この男は自分の困った顔を好むのだ、と。
 そんな胸中を読まれたのだろうか。突然市丸がくすり、笑った。
「まぁええわ。ほなせめて雨が止むまでに考えとき」
 言い。
 市丸は雛森と同じ軒下に入って、傘を閉じた。
「…市丸隊長?」
「これで当初の目的は果たせるわけやし」

 ――相合傘できるやろか思て

 しとしとしとしと、雨の中。
 軒の下、二人。
 こんなのでいいのだろうか。そうは思うけれど、彼にしてみても、何より雛森本人にしてみてもこれが精一杯の譲歩だろうし。
「……はい」
 応え、ようやく雛森は、はにかむように笑った。

 雛森の困り顔は晴れたけれど、雨はまだまだ止みそうにない。
 移動すらままなくとも、今だけ、今だけは。
 このままでいい、と、淡く、二人は思う。

―――了



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でもきっと雨は止まなくて、仕方ないから市丸に背負ってもらったと思う。
背負われた雛森ちゃんが傘を差してあげて、
「もうちょっと自分かからんようにしぃよ」
「平気ですっ」
「…降ろしてまうよ」
なんて遣り取りがあるといいなぁ。

こんな感じかなと描いてみたイラストはこちら