その日は朝から雨が降っていた。
音もなく。
さらさらと。
あまこひ
ふと気付くと部屋が薄暗がりに包まれていた。はてもうそんな時間かと時計を見やれば、針が示すのは夕刻がさしかかったばかりの時刻。
不思議に思って窓を振り返り、ようやくは、今日が雨天だと思い出した。今日の雨は音がない。だからつい意識から外れてしまうのだ。
読み掛けの本に栞を挟み、灯りを点けようとは立ち上がる。その拍子にもう一度往来を見やり。
そして、その色を見付けた。
小雨にけぶる町並みに朱色を差すそれは、大きな蛇の目傘だった。
見覚えのある傘に、は急ぎ立ち上がる。慌てて玄関を開けると朱色は変わらずそこにあり、彼女はほぅと安堵の息を漏らした。
「ああ驚いた…如何しなすったの、こんな時分に」
ギンさん、と、そう声をかけると、蛇の目傘を差した男は、唇で薄く弧を描いた。
「。今日は非番やったんやないの?」
「そうおす。せやけどお天道さんがこないやから、一日部屋に篭もっとりましたんよ」
「さよか。なら感謝せなね、を繋ぎ止めといてくれた雨に」
「ま」
はころころと笑い、それからすぃと、戸を大きく開いた。
「お寒ぅございましょう。どうぞ入りなんし。ちょうと早うございますが、熱燗でも用意致しんす」
「いや、ええよ、今日は」
「ギンさん?」
「もう行かなあかんねん。の顔見れただけで充分や」
すぅ、胸中が冷えた心持がした。
「…何処ぞへ行かれますの?」
「うん」
「遠くへ?」
「うん」
「また帰って来はります?」
「…うん」
ああ、嘘だ。
そう気付いて、は「…非道い人」と小さく呟く。
嘘を吐くから非道いのではない。嘘と分かるように嘘を吐くから非道いのだ。
唇に笑みを刷いたままのギンに、は目元を歪めて言った。
「わっちはもう用済みですのん?」
ギンの想い人に、良く似ているらしい。それだけの理由で、はギンに買い取られた。菓子を、小物を、家具を、家を、は彼の想い人の代わりに受け取った。そうして時折訪れる彼と、想い人の代わりに過ごした。
それが、もう来ないということは。
想いが通じたのか。
だからもう自分はいらないのか。
――否、違う…
冥い感情を、は咄嗟に振り払った。
自分が不要になったならばギンがここに来るはずがない。
わざわざ別れを告げに来るなど、ギンはしない。そういう男だ。
ギンにはまだが必要で、の存在意義とはギンの想い人の身代わりで。
だから、自分がすべきことは。
「――ギンさん」
ゆるやかに瞬きをひとつし、目を細め、は言う。
「あなたが勝手にわっちを拾い、勝手にわっちを捨てなさるなら、わっちも勝手にあなたをお待ちしていんす」
目元を和ませ、口許を緩め。
笑顔でいられていたらいいと願いつつ、「ご健勝で」と言い添え、は丁寧に頭を下げた。
するとギンがくしゃりと笑い、これで良かったのだと、は泣きそうな面持ちで思った。
「――おおきに、。キミもどうか息災で」
「あい」
「さ、もう入り。雨足が強ぅなってきた」
「あい。…道中、お気を付けて」
心からそう言うとギンが頷いてくれたから、は少しだけ嬉しく思った。
そして言われた通り玄関の内に身を滑り込ませ、会釈をしてから戸を閉める。
閉めた戸を背に、はすがる気持ちでギンの気配を探した。
は霊圧など察知できない。けれど雨に濡れた地面を往く足音くらいは聞き分けることができる。
――ぴちゃり
一歩踏み出す音が耳に届き、そうっと瞼を閉じた。
まだ降り続いているはずの雨音は聞こえないのに遠去かる足音だけはいやに鮮明に聞こえ、嗚呼とは顔を覆う。
嗚呼、もう。
なんと役立たずな雨なのだろう。
どうせ降るならあの人の足音を消してしまうくらいに降ればいいのに。
どうせ降るならあの人が立ち往けないほどに降ればいいのに。
それが叶わぬならせめて。
あの人を優しく見送って。
あの人の想い人の代わりに。
あの人の想い人になれないわっちの代わりに。
雨よ雨。
どうか、どうか。
―――了