「愛してます」

 するっと出た言葉に、驚いたのはあたし。


  あいことば  


 実を言うとそのときのことを、あまりよくは覚えていない。
 午後が非番だったのは覚えている。乱菊さんとお茶をするのは珍しいことじゃないから、乱菊さんと一緒にいたことは不思議に思わない。でもどういうなりゆきで市丸隊長が同席しているのかは、いくら考えても思い出せなかった。
 と、いうよりも。
 その言葉を発した直前の記憶が、ばっさりなくなってしまっているんだ。
 それほどに、自分が言った言葉は衝撃が大きかった。
 あたし、今なんて言った? 市丸隊長に? 愛してる、って? 市丸隊長を? 目の前の、市丸隊長、に?
 確認しなくても、あたしと同じくらいに驚いて固まっている市丸隊長と乱菊さんを見れば、答えは明らか。
 たちまち顔が熱くなって、目も当てられないくらいに動転したあたしが、次に吐いた言葉は。

「ご…っ、ごめんなさい、違うんです、そうじゃないんです、すみません、嘘ですっ、大嘘なんですっ!!」

 一息に言い切って、それから我に返った。
 ああ、あたしの馬鹿。撤回するにしたって、なんて言葉を使うの。
 正面に座る市丸隊長は、ほんの一瞬だけ口許を歪め、「そうかァ」と笑った。
「ちょーと、残念やな」
 いつもと同じ、本音を隠す笑みに、ますます居たたまれなくなった。
 自分への羞恥でさらに体温は上がり、後悔と自責で手足は逆に冷え切ってゆく。
 咄嗟に言葉を継ごうとして、でもその言葉はさらに互いを抉るような気がして、だからあたしは、何も言わずにその場を逃げ出した。
 そのことすら彼を傷付ける、そう理解した上で。


 真っ白な頭で走って走って走り通して。
 止まったのは疲れたからでなく、目の前がふさがれていたからだ。けれど一度止まってしまった足は疲労を思い出してがくがくと震え、終いには座り込んでしまった。
 走っている間は真っ白だった頭にここぞとばかりに侵食してくるのは、自分の言葉と市丸隊長の顔。
 「愛してます」だなんて、「嘘です」だなんて。なんて無責任で酷薄な組み合わせ。
 思い出してじわり、視界がにじんだ。
 あたしは市丸隊長が好きだ。底を見せてくれない笑みも、しなやかな指も、含むような声音も、肩を竦める動作も、軽やかな歩き方も、広い背中も、何も言わないところも、何も聞かないところも。
 でもこの感情は、「愛」と言うには大袈裟な気がする。
 「愛」ではない。「友愛」でもない。「憧憬」や「親愛」は、多少はあるけどそれも違う。けれど「好き」では足りない。
 ぴったり当てはまる言葉が見付からない。少なくとも「愛」ではない、と思う。
 だから口をついたのが否定の言葉。でも嘘じゃない。大嘘だなんて、それこそ嘘だ。かと言ってそれに代わる言葉が見付からない。
 熱量過多と酸素不足のためにぼうっとする頭でそんなことを考えているうちに、いつのまにか日が傾いていた。
 次第に色味を帯びてゆく光を背に受け、「もう逃げるな」と言わんばかりに目の前をふさぐ壁の一点を見詰めているうちに、ふと人影がひとつでないことに気付いた。あたしの影よりやや小さいのは、あたしより離れて座っているからだ。
 ゆっくり振り向くと、乱菊さんが「やっとこっち向いた」とふてくされた顔をしていた。
「何時間もシカトしてくれちゃって。そんな嫌がらせ、どこで覚えてきたのよ」
「……乱菊さん」
「なに」
「なんで言葉って限りがないのかな」
 乱菊さんは黙ったままだったから、ぽつりぽつり、あたしは続けた。
「愛では大きいんです。好きでは足りないんです。でも他に適当な言葉が見付からないんです。似た言葉は沢山あるのに、どれも違うんです。どれが正解なのかな。……どうやって見付ければいいのかな」
 影が伸びた。陽がさらに傾いたんだ。
「愛、だなんて。そんな大袈裟な言葉、いらないのに」
 そう言った途端。
 にょっ、と。
 影が伸びた。乱菊さんの影だ。そうしてずんずん大きくなって、気付けばあたしのすぐ横に座り込んで。
 ぱしんと、白い両手であたしの頬を包んで、顔を上げさせた。
「感情とか気持ちとか想いとか。そういったものとぴったり重なり合う言葉は少ないものよ。このふたつが出会うのは奇跡と言っていいの。無限にあると見せかけて、言葉はものすごく稀少なんだから。その言葉を、どんな状況であれいらないだなんて、そんなことを言うのは失礼よ」
 鼻先がくっつきそうなくらいに近付いて、あたしの眸をまっすぐに見て。
 乱菊さんは一息にそう言い切った。
「そもそも雛森。親愛だろうが友愛だろうが、ちょっと好きだろうが物凄く好きだろうが、そういった気持ちは全部、ラブなのよ」
「……らぶ」
「英語ね。Love。彼等は人を好きだという気持ちを、みんなひっくるめてラブと表現するの。愛、よ」
「あい」
「市丸を好きなのね?」
 何を突然訊くんだと、咄嗟に言葉を詰まらせたら、「どんな形であれ、好きなのよね?」と重ねて問われ、首肯しようとした。でも頬を乱菊さんに包まれたままだったから動かなくって、数秒口をぱくぱくさせた末にようやく、あたしは「はい」と、小さく返した。
 すると乱菊さんは、やっぱりあたしの頬を解放しないまま。
「なら、それは愛よ」
 にっこりと笑い、断言した。
「愛」
 繰り返すと、今度はすとんと、胸に落ちた。
 うん、あたし。
 市丸隊長が好き。
 市丸隊長を、愛してる。
 不思議と浮かんだ気の抜けた笑みに、乱菊さんは満足そうに両手を放した。


 ずいぶん走ったようで、けれど距離的には護廷からそう遠く離れていなかった。どうやら遠回りの道を走ったらしかった。
 来た道とは別の道を、あたしと乱菊さんは並んで歩いた。
 護廷の白い壁が橙色に染まる頃、あたしたちの影はもうひとつの人影と重なった。背の高いその人の影は、あたしたちの背丈の二倍はあるんじゃないだろうか。
「市丸隊長……」
 いつからそこに立っていたんどろう。どうしてここを通ると分かったのだろう。
 驚きはした。でも、それよりも先に謝らなければ。
 勢いよく頭を下げ、「さっきはごめんなさい」と続けようとしたけれど、市丸隊長が口を開く方が早かった。
「ボクも、考えたんやけど」
「え、」
「やっぱし難しわ、愛以外の言の葉て」
 驚いて、隣の乱菊さんを見る。あたしの視線に気付くと、乱菊さんは軽く肩を竦めて見せた。
「しゃあけど、雛森ちゃんは『愛してる』なんて言葉はキライみたいやし」
 せやから。これで堪忍な。
 そう言って市丸隊長は。
 あたしをすっぽり抱き締めた。
 細いと思っていた腕は意外に逞しいこととか。肩に置かれた頭は涼しげな月を連想するのに温かいこととか。頬に触れる銀髪がこそばゆいということとか。
 そんなこと考える余裕なんてちっともなかった。伝えられた想いを受け止めるのに、精一杯で。
 そう。
 市丸隊長は、あたしが言葉にできなかった気持ちを、言葉以外の方法で、きれいに表現してくれた。だからあたしも、同じ方法で彼に答えた。
 所在無く揺れていた腕を背中に伸ばし、ぎゅうと抱き締め。
 「愛してます」、その気持ちが伝わるように。

―――了



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贈り物は言葉の添え物。
言葉は伝えたい気持ちの添え物。

気恥ずかしくて使いづらい言葉ではあるけれど。