くちづけひらり  

 しとしとと静かに雨が降る日。
 市丸と雛森は資料庫の整理をしていた。
 市丸が机に積まれた資料を取って、踏み台に乗った雛森がそれを受け取ってしまってゆく。
 はじめのうちは「雨やねぇ」「雨ですねぇ」だとか「相変わらずここは埃っぽいなァ」「でも落ち着きますね」だとかと他愛もない話をしていたけれど、今はなんとなしに会話も途切れ、ふたりして雨音に耳を傾けながら作業を進めている。
 それはとても穏やかな時間。

 やがて、市丸はふと思った。

 振り返った雛森の手を取って、ちゃんと体をこちらに向けさせる。雛森は驚いて「市丸隊長?」と問いかけた。
「んー、ちょっとなー?」
 言い、市丸は少し背伸びしたり屈んだりを繰り返し。結局最初よりも少し高く背伸びをしたところで、彼は「うん、こんくらいかなァ」とひとり頷く。
 踏み台の上で動けずにいる雛森は何が「このくらい」なのか分からず、けれど訊いても曖昧な答えしか返ってこない。
 雛森は途方に暮れ、せっかくだから一休憩にしようかと再び雨音に耳をすます、と。

 ぷかり、泡が浮かぶように。

 市丸のくちびるが雛森のくちびるに触れた。

 それは本当にわずかな、文字通り一瞬のくちづけだったけれど。雛森の顔を赤く染めるには充分過ぎるほどで。
 けれど腕を掴まれたままだからそれを隠すこともできず。
「なっ、なにっ、なっ、…」
「んー、ちょっと、な?」
 同じセリフを繰り返し、市丸はにぃと悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「こんくらいかなァ、思ぅて」
「え?」
「ボクと雛森ちゃんの身長差」
 それは案外に大きいもので、なるほどこれでは雛森からくちづけするのは難しい、そう思ったのだと、市丸は続けた。
 ますます顔を染めて金魚のように言葉を探す雛森に、市丸は笑みを深くして。
 背伸びをして、その耳に囁いた。

 ――だから、例えば今みたいに

 ボクを見下ろす機会があったらキミも落としてみて?
 ボクがするみたいに、ひらり、くちづけを。

―――了



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「キス」より「くちづけ」の方が響きが好き。
一時「口付け」と「接吻け」で迷ったけれど、
結局ひらがなに落ち着きました。