花攫い
その日遅番だった乱菊は、すぐに隊舎へは向かわずに二階の渡り廊下の欄干で頬杖をついていた。
眼下にこれから向かうべき十番隊隊舎を見下ろし、彼女は軽く溜息を吐く。
と、そこへ。
ふと馴染みの霊圧に気付き顔を上げると、「あら」と会釈をした。
「こんにちは、浮竹隊長」
「やあ」
応え、浮竹は片手を上げて柔らかく笑んだ。
彼が出歩くとは珍しい。そう思いつつ、乱菊は欄干に預けた身体を起こした。
その隣に立ち、浮竹は苦笑を浮かべて十番隊隊舎を見下ろす。
「相当機嫌悪いみたいだなァ」
無論乱菊のことではない。十番隊隊長、日番谷冬獅郎のことである。
「ええ」と首肯し、乱菊は肩を竦めて見せた。
「私が来たときにはもうこんな状態で。とてもまっすぐ隊舎に向かう気にならなくて遠回りしてるとこなんです」
そこで言葉を切り、ちらりと浮竹を見上げ。
「――何か心当たりあるんじゃないですか?」
そう問えば、返事の代わりに肩眉を上げた苦笑が返ってきた。
「今、時間あるか?」
「とっくに遅刻ですよ。むしろ浮竹隊長に呼び止められたのだと言い訳できて助かります」
乱菊の答えに、浮竹は声を出して笑った。
そしてさらりと、事の次第を至極簡潔に説明する。
「キスマークを見ちまったらしいんだ」
「…日番谷隊長が、ですか?」
「そう」
「……朽木の?」
「よく分かったな」
「いくら隊長でも、赤の他人の情事見たくらいであそこまで不機嫌になりませんよ」
「なるほど」
納得する浮竹の傍らで、逆に乱菊が妙な顔になった。
「…てか、それほんとにキスマークだったんですか?」
乱菊が知る朽木は生真面目で正直で、それに多分、日番谷のことが好きで。そんな彼女がキスマークを付けられるような事態など起こりえるのだろうか。よしんば起こったとしても、日番谷に合わせる顔がないと部屋に閉じこもってしまうのではないだろうか。
思った通り、浮竹は平然と「ぱっと見はキスマークに見えなくもないな」とぼかした言い方をした。
「実際、何なんです」
「白哉につねられた痕」
それもどうだろうと考え、乱菊は思わず呻いた。
時期柄、虫に刺されたとも考えられないし、赤い鬱血が首筋にあるのを見れば誰だって口吸いの痕だと思うだろう。日番谷だって、当然。
視線を十番隊隊舎にやったまま、浮竹は続けた。
「朽木は正直だからな。冬獅郎に誰に付けられたと訊かれて素直に白哉だと答えたらしい」
「兄さまに、と?」
「ああ」
あちゃあ、と、乱菊は片手で顔面を覆った。
まさか当人は、キスマークと思われているとは思っていなかったのだろうけれど。
せめて「兄さまにつねられた」とまで言っておけば、日番谷も誤解せずに済んだだろうに。
つくづく、なんと不器用なふたりなのだろう。見ているこちらがやきもきする。
浮竹も同じことを考えているのか、やれやれと視線を空へ投げた。
「じゃあ朽木、相当へこんでいるでしょう。ウチの隊長は怒る理由を言わないから」
言葉もキツイし、と付け足すと、浮竹は「まあなぁ」と嘆息した。
「けれど今回は、深く考えなかった朽木も悪いし」
「朽木といえば、そもそも朽木隊長はどうしてそんなことしたんです。悪巫山戯なんてあの人らしくない」
「さあなぁ…口惜しかったのかもしれないな」
「何がです」
「冬獅郎が、朽木を攫ってゆくのが」
浮竹の言葉に合わせるように、ふわり、風が吹いた。
風になびく髪を押さえつつ、乱菊はもう一度浮竹を見上げた。
「朽木が冬獅郎のことを、隊長と呼んでいるのは知っているかい?」
「…ええ」
彼女が日番谷をそう呼んだのを聞いたとき、乱菊は大層驚いたものだ。彼女は隊長格のことを、隊長殿と呼ぶのが常だったから。彼女が殿という尊称を付けないのは、それまでは浮竹のみだったのに。
「あいつにしてみればたいした進歩だし、何より冬獅郎の話題が増えたんだよな。もしそれが、白哉の前でもそうだとしたら。…そりゃあ焦るだろうな、あいつも」
「…そうでしょうか?」
「君たちが考えてる以上に、白哉は朽木を大事にしているんだよ」
例えば、彼女を危険な任務に付けぬようにと内々に話をつけてきたり。
胸中でこっそり付け加え、浮竹は乱菊に笑んで見せた。
乱菊はまだ懐疑的ではあったものの「ふぅん」と頷いておくことにする。
そして「要するに」と、いまだに険悪な霊圧の漂う十番隊隊舎を指差して。
「ウチの隊長の機嫌が悪いのは朽木のせいで、その原因を作ったのは朽木隊長だということですね?」
「…まぁ、大雑把にまとめると」
「つまりあの収拾は朽木隊長がつけてくれる、と?」
日番谷の機嫌を直し、それによって滞った仕事量を取り戻してくれる、と。こういうわけでだろうかと視線で問うと、浮竹は難しい顔になった。
「……いや、期待できんだろう」
「でしょうね」
もとより期待などしていなかったから、乱菊はあっさり引いた。
さてどうしてくれようと、ふたりの大人は考える。
花を攫った風を宥めるのには、少々難儀しそうだった。
―――了