京楽に猫撫で声で呼ばれると、反射的に身構えてしまうのは仕方がない。
けれどダメなのだ、身構えるだけでは。
「何をなさるんですか、京楽隊長!」
昼休みが終わって少しした頃。
八番隊隊舎に、髪留めを取られた七緒の非難がましい声が響いた。
花は色褪せ散りゆくを待ち
奪われた髪留めは高い棚の上に置かれてしまった。七緒が背伸びをしてもとても届かない高さだ。
置いた本人といえば飄々とした顔のまま「ちょっと山爺ンとこ行ってくるね〜」と出かけてしまったが、本当かどうかは知らない。
七緒は何のつもりだと憤りつつしばらくは髪をおろしたまま隊務に励んでいたが、どうにも顔に降りかかる髪が邪魔だった。髪をかき上げる動作を十ほど繰り返したところで諦め、筆を置く。やはり髪留めがないと困る。
手の届かない場所にある髪留めをひたと見詰め、やがて七緒は自分の椅子を移動させた。足元はおぼつかないが、これでどうにか届きそうだ。
そぅっと椅子に上がり、手を伸ばしたところで。
背後から声がかかった。
「――えーと…七緒、サン…?」
不意のことに驚き、思わず振り返ったところで、ぐらり、身体の均衡が崩れた。
落ちる、そう覚悟したけれど、予期せず伸びてきた腕が、七緒を支えてくれた。
「…っぶねェ…何やってんスか」
檜佐木、だった。
様々な理由から、七緒の心臓が跳ね上がる。
「あ…ありがとう」と言いつつ、七緒は体勢を直した。
「髪留めを…取ろうと思って」
「…あ、あれっスか」
七緒の視線を追い、檜佐木も髪留めを見つけたらしかった。ひょいと手を伸ばすが、わずかに届かない。
「京楽隊長の悪戯っスか?」
「ええ。何のつもりか知らないけれど」
「そりゃ、見たかったんじゃないスか? 七緒サンが髪下ろしたとこ」
たん、と飛び上がると、今度はどうにか届きそうだった。
それを見守りつつ、七緒は嘆息する。
「そんなに面白いものでもないでしょうに」
「いや、そういう意味でなく」
たん、もう一度飛び上がる。今度こそ、髪留めに手が届いた。
「なんか、新鮮っつうか。あ、こんなのも似合うんだな・って気付いたら、より一層近しい気持ちになるんじゃないかなぁ、と」
言いつつ、檜佐木は取れた髪留めを七緒に手渡す。
七緒はなんとなしに面映く、けれど生来の強情さゆえ、「そういうものかしら」とわざと眉間に皺を寄せた。
「少なくとも、俺は。いいモン見れたって思いましたもん」
「いいもの?」
「七緒サンの髪、綺麗じゃないスか。下ろしとけばいいのに」
きっと、何気ない言葉だったのだと思う。何も考えず、思ったままに口にしたのだろう。
だから、なおさら。
檜佐木の言葉は、七緒をざわりと騒がせた。
「…邪魔に、なるもの…切れば伸びると鬱陶しいし」
はやる鼓動に気付かれないといい。熱を帯びた頬が、下ろした髪に隠れているといい。
そう願いつつ、七緒は髪留めを受け取った。
「それよりも。何か用?」
「あれ? 七緒サンが呼んだんじゃないんスか?」
「え?」
――七緒ちゃんが困ってるみたいだからさ、行ってあげて?
そう、言われたらしい。
…ああ、謀られた。
思い、七緒は天井を見上げる。
「…余計なことを」
「は?」
「いえ、こちらの話」
言いつつ、七緒はこの場にいない上官を胸中で非難する。
この胸に咲く花はつぼみのままで構わないのに。
そんな
「――せっかくだから、お茶でも如何?」
ああ、つぼみが膨らんでしまう。
―――了