「ゆみりん」などと不本意極まりない字を呼ばれ、けれど相手が相手だからと無理やり自分を説得し、弓親はやちるを振り返った。
妙な字を好んでつけたがる彼女に「ゆみりん」と呼ばれ出してずいぶん経つ。ひょっとしてこのまま定着してしまうのではないかと思うと実に笑えない。
「なんですか、草鹿副隊長」
「つるりん知らない?」
「ああ、一角なら買出しですよ。ほら、今夜の飲み会の」
「えぇ〜!?」、一角になついているやちるは不満そうに頬を膨らませる。この様子だと、また何かやらかして遊ぶつもりだったのか。
「また花札負けたの? つるりん弱過ぎ!」
「いえ、強いですよ? 一角」
「ウソだぁ! だってこの前もその前もそれより前も負けて、飲み会の度に買出しに行ってるじゃない!」
「だから強いんですよ」
強いからこそ負けたいときに負けることができるのだということをどう説明しようかと考え、結局、面倒になってやめた。
「ま、対戦してみれば分かりますよ」
「じゃあ、来いよ」
買出し帰りの一角は、遠回りになることを承知で石段を帰路に選び、さらに時間があるからとその真ん中あたりで腰を下ろした。
手持ち無沙汰に、やちる用に買った金平糖をひと袋開ける。大量に買ってきたのだ、このくらいはいいだろう。
二、三粒まとめて口に放り込んで噛み砕き、「…甘ぇ」、一角は呻く。こんな砂糖のかたまりをざらざらと流し込むようにして食べるやちるの気が知れない。水と勘違いしているのではないか。
今度は一粒ずつ舌でのんびり溶かし、それが四つ目を数えた頃に、待ち侘びた“偶然”が上段からやって来た。
「――こんにちは」
「…どうも」
後方を振り返り、一角は軽く会釈する。
降りてきたのはネムだった。
「買い物帰りですか」
「エェ。大荷物なんで、ちょいとばかり休憩を」
「そうですか」
「でももういい時間だ。そろそろ帰らねェと」
「そうですか」
二度目の相槌は最初のそれよりもほんのりと和んだ気がして、一角は淡く口元を緩め、けれどそれに気付かれないよう、さっさと立ち上がる。
緑に隠された石段は長い。ゆっくりと歩けばそれなりに時間がかかるから使う者は滅多にいない。その石段を、一角はネムよりも一段先に降りてゆく。
斜め前の一角の背中を見つつ、ネムが口を開いた。
「沢山買われたのですね」
「酒盛りなんスよ、今日。これでもつまみだけなんです」
「大勢集まられるのですか」
「いえ、内輪だけっす。大喰らいの馬鹿ばっかですから、ウチは」
「仲がよろしいんですね」
「楽しそう」とぽつりと呟かれ、一角は咄嗟に出かけた一言を、無理やり喉奥へ押し込めた。そんなことを言っても、彼女はきっと困るだけだから。
淡く微笑み、静かに首を振り。少しだけ声を落としてこう言うのだ、「申し訳ありません」、と。
その度に自分が足を踏む込むべきでない彼女の境遇だとか複雑な心中だとか、考えても詮のないことを考えずにはいられないから、一角は慎重に言葉を選ぶ。
「酔っ払っちまえば楽しいんですけどね。下手に飲み潰れ損ねると、先に潰れた連中の始末をしなきゃなんねぇから面倒っすよ」
「そんなものですか」
「そんなもんです」
それきりなんとなしに会話も途切れ、残りの階段を、ふたりは黙ったまま降りた。
石段を降りきれば、一角は右へ、ネムは左へと道が別れる。「それでは」とネムが背を向ける間際に、一角はその腕を取った。
「あ、すんません」
「いえ。何か」
「これ、良かったら」
言い、差し出したのは食べ差しの金平糖。
「開封済みで悪いんですけど。甘過ぎて、俺の口には合わねェんで」
「……ありがとうございます」
薄く薄く、ネムが笑んだ。
そして会釈を一つ残し、今度こそ一角に背を向ける。遠去かる背を少しだけ見送って、一角も隊舎へ足を向けた。思惑通り買出しにも行けたし、ネムにお裾分けもできた。充分だ。そう、自分に言い聞かせる。
金平糖だけじゃ足りないなんて思ってはいけない。美味しい菓子をあげたいとか、花をあげたいとか、ましてや、「じゃあいらっしゃいますか」と誘いたい、などと。彼女を困らせると分かっていて、どうしてそんなことができるというのだ。
たったの一言なのだ、いつも。押し込める言葉は。
――じゃあ、来いよ
その一言だけなのに。
「……ちっ…」
緑の開けた空に向かい、一角は口角を歪め、吐き捨てた。
―――了