ボクの名前は市丸ギンという。
Call me, Heard me.
「――あァ、あかんわ」
ぽつり、呟き、市丸は突然立ち上がった。
その日の市丸は珍しく朝から執務室で隊務をこなし、二日後の共同討伐についての話し合いにも逃げなかったから安心しきっていたイヅルは、驚いて咄嗟に動けない。まさかこの期に及んで、十番隊隊長と副隊長を目の前に堂々と逃げるというのか。いや、まさかそんな。
けれどイヅルの動揺を余所に、市丸は軽やかに入り口へ向かう。
「た、隊長? どちらへ?」
「ちょお出かけてくるわ〜」
「は!? 何を…!」
「どういうつもりだ、市丸」
日番谷から向けられるあまり穏やかでない視線にも、市丸は怯まない。
からり、軽い音を立てて障子を開ける。
「えろぅすんません、ちょいと野暮用に。後のことはイヅルに任せますよって。ほな、明後日はよろしゅう」
「市丸隊長!」
乱菊の制止に、市丸は笑みをひとつ残し。
ぱたん。障子を閉めてしまった。
目の前で話し合いを放棄されてしまった二人は日番谷と乱菊は一旦目を合わせ。
「……」
ジト目でイヅルを見やる。
視線に射殺される思いで、イヅルはそろそろと、話し合いをするべく書類を提示した。
雛森は四番隊隊舎前で勇音と話をしていた。入院している自隊の容態を聞いたついでの世間話だ。
そこへひょいと、市丸が顔を出した。
「あァ、雛森ちゃん。エエところにおった」
「あれ、市丸隊長? どうかしました?」
雛森の問には答えず、軽々と彼女を抱き上げ、市丸はにこり、勇音を振り返る。
「ちょい雛森ちゃん借りてもエエやろか?」
いいも悪いも、本人は借りてゆく気満々ではないか。
そうは思っても、勇音は口には出さず、どうぞと道を空ける。それ以外どうしろというのだ。
「おおきに」
市丸は雛森を抱き上げたまま歩き出す。
抱き上げられた雛森は勇音の姿が遠去かる段になってようやく我に返るも、おたおたと慌てる他に何もできない。辛うじて市丸の肩越しに、勇音に助けを求める視線を送ると、目の前で手を合わせ、「ゴメンナサイ」とのサインを送られた。…お手上げだ。
がくり、雛森は諦めて脱力した。
市丸に連れてこられた…というよりも運び込まれた先は、各隊の間にある共同休憩所だった。
既に数名の平隊士が寛いでいたが、市丸が何か言うよりも先に「失礼しましたッ」と自ら慌ただしく部屋を空けてくれた。空けてくれなくていい、むしろ居て欲しいと雛森は思うけれど、どうしようもない。
市丸から下ろされてようやく、雛森は息をついた。自身は一歩も歩いていないのに、心臓がばくばく言っている。顔が火照り、いつ倒れてもおかしくないように思えた。
ほっとするのも束の間、今度はぎゅうと、広い胸の中に閉じ込められた。
収まりかけていた動悸が再び跳ね上がる。きっと、先程よりも。
「雛森ちゃん。雛森…桃ちゃん」
耳に直接囁かれる声は低く、吐息は熱い。いや、熱いのは己の耳か。もう、何もかもよく分からない。
おまけに滅多に呼ばれない下の名前まで呼ばれ、雛森は今にも座り込んでしまいそうだ。とっくに力の抜けている膝がそれでも立っていられるのは、きつく抱き上げる市丸の腕のおかげだ。
「桃ちゃん。桃、桃、…もも」
なァ、ボクの名前を呼んで?
ぐるぐると回る思考に辛うじて市丸の声が届き、雛森は動かない口を必死に動かしたけれど、唇を「イ」の形にしたところで「ちゃうよ」、口中に指を差し入れられた。
「市丸、ギン。ボクの名前はギンや。隊長隊長、市丸隊長ゆぅて皆呼びはるけど、…なァ、桃ちゃん、」
ギンて、呼んで?
雛森の耳朶で、市丸はそう繰り返す。
キミが呼んでくれなボクは自分の名前を忘れてまう、と。
毎日毎日、同じ名前を紙面に書いているのに。大勢の人が自分の名前を呼んでくれるのに。
キミが呼んでくれないと。
「…ン」
雛森が小さく声を出したのは、呼んでとせがまれてから随分経ってからだ。それまで何度も唇を動かしたけれど、声が巧く出なかったのだ。
市丸は「うん」と頷き、それでも腕は緩めない。
だから雛森は、夢中で言った。何度も何度も、声が大きくなるまで、何度も。
その度に市丸は、少しずつ笑みを深くして。
それでもやはり「うん」というだけで、腕は緩めない。
呼び飽きても喉が渇いても、ボクの名前だけ呼び続けて?
身勝手な願いと一緒に、市丸は雛森をかき抱いて離さない。
―――了